• レポート
  • 2019.12.26

私が感じた「日本の今」

日本語と出会って、NF-JLEP訪日フェローシップのおかげで、自分の視野が広がった

1994年高校の時、初めて日本語と出会った。小さい時からドラえもんという日本のアニメを見てきたのだが、字の形も面白くて、発音も英語より簡単に言える日本語の魅力を感じはじめた。その時に教えてくれた先生が研修で6か月日本に行ったことがあって、その体験談もよく話してくれた。ある時は先生が「日本では「銭湯」という皆で浴びる場所があるの。でねえ、みんな裸じゃないとだめなの!ヒー!子供の時以来、裸の姿を見せるのも初めてだったし、しかもカウンター席にさあ、おばあちゃんが座ってる。ひえー、俺の裸がおばあちゃんに見られたなんて、、、」と語ったり、ある時は「あとさあ~お寿司?って知ってる?日本人がよく食べている生魚だよ。うわ~ドキドキしながら、生魚、いや~や、でも、チャレンジしなくちゃ!で、食べてみたら、すぐに吐き気がしちゃった~、、、やっぱ生魚だね」と語ったりして、私もほかの生徒たちもよく笑わせてくれた。とにかく、生徒の中で日本語は人気があった科目だった。インターネットがまだ普及していなかった時代に、日本の情報も少なかったから、先生の日本滞在経験話をいつも興味津々に聞いていた。おかげで、日本語が好きになり、大学に進学した時に、日本語教育の学科を選んだ。

大学では日本語を早く身に着けるために、1年生の時から、いろいろな学習方法を試してみた。復習や予習のために、授業で習った日本語を家庭教師で生徒に教えたり、ラジオ放送で日本語レッスンをやったりしていた。あと、私の町、バンドン市では日本人が少なかったが、バンドン日本人学校で夏祭りのような交流イベントがあったら必ず参加し、現地の日本人と知り合えるようにしていた。又、日本の雑誌を通して日本にいる70人位の日本人と出会い、文通でお互いの文化を日本語で情報交換していた。切手代がかなり掛ったが、このNF-JLEPから毎月もらった奨学金のおかげで、学費を払う以外に問題なくその70人の日本人と文通し続けた。とにかく、日本人が少ない環境のバンドン市にいても、自分の日常生活に日本語でコミュニケーションができる環境を作るようにしていた。日本人の知り合いがたくさんできたおかげで、日々日本語の勉強がコツコツとできて、スピーチ・エッセイコンテストや留学選抜試験に何回落ちても、あきらめないでいられた。やっと5年生になって、2002年8月JALスカラーシップで1か月日本訪問、2012年10月日本文部科学省の奨学金で1年間日本の大学に留学することができた。奨学金で日本へ行く夢がかなって、とてもとても嬉しかった。

JALスカラーシップの時は東京、金沢、京都でのホームステイやシンポジウムの参加を通して、日本の文化をたくさん吸収した。京都教育大学での留学の時はほとんど中国人の留学生と留学生用の日本語の授業を受けて、読む力、話す力をみんなと比べてしまい、なかなか自分の日本語能力を高めるのが難しかった。その時、とにかくいっぱいいっぱい日本語をインプットしようと思って、いくつかの日本人の授業を聴講してみた。最初は全然分からなかったのだが、少しずつ分かるようになって、自信も少し出るようになった。又、日本人の社会と交流するために、お祭りが多い京都らしい雰囲気もたくさん見て、そして、運動をかねて土日に駅から駅までのウォーキングイベントに参加したり、日本人の家族にホームステイしたりした。夏休みと冬休みには青春18切符で遠い旅もしたりしてみた。文通してきた日本人のペンパルに会いに、長崎まで行ったのが、インドネシアにいた時にも旅に出ることがなかった私にとっては勇気がいる行動だった。朝早く家を出て、朝一番始発の電車に乗った。京都駅で駅員に聞いて、「長崎までいきたいんですが、、、」と聞いたら、駅員が戸惑っている顔して「とにかく岡山まで行ってください」と答えた。岡山までの電車で乗る前に買った時刻表を読みながら、長崎までの電車を調べた。その時、駅員の戸惑い顔の理由がやっとわかった。何回も乗り換えしなければならないこと、とても長い旅だと微笑みながら気づいた。「よーし!乗り換えの時間が分かった!あとは何番線から乗るかは車掌の言葉をちゃんと聞かなくちゃ!」と隣に座っている日本人としゃべりながらも緊張のある旅だった。それで、最終の電車で長崎まで着けて、そのペンパルにも会えた。日本に来るまでずっと応援してくれた一人のペンパルだった。手紙で紹介してくれた彼女の町も自分の目で見ることができて、とても嬉しかった。日本は交通がとても便利で、一人旅に割と安全な国だと感じた。それで自分も冒険の楽しさを知りはじめた。

このように、日本語のおかげで、出かけるのが怖かった私がどこに行っても行けるようになって、恥ずかしがり屋で、人との付き合いが苦手だった私がいろいろな人と仲良くできるようになったことで、自分の視野が広がった気がした。

このような経験を持っている私は先生の立場で勉強の目標に悩んでいる学生、日本語能力を高めることにあまりやる気がない学生、3年生になっても日本人の友達が一人もまだできない学生に対して、いつもこう言っている。「皆さんは便利な時代に生活している。インターネットも簡単にアクセスできるし、SNSもたくさん使っているので、日本人とのつながりをたくさん作ってみてください。そこからきっと日本語を学ぶ動機が生まれる。日本語能力を高めるための努力も生まれる。とにかく、授業での知識だけに頼らず、授業以外の時間を積極的に日本の文化と日本人の知り合いを通じて接触してみてください。生きている日本語を学ぶのは自分も生きていると感じて、とても面白いよ。なので日本へ行く機会があったら是非チャレンジしてみてください」

そのあと、2008年~2016年大阪府立大学大学院での留学、それから今回NF-JLEPフェローシップで2018年6月~2019年4月大阪府立大学で11ヶ月日本語教育分野の研究をしながら、生きた日本の文化を自分の体で感じる、またとても貴重な機会をいただいた。自分が感じた今の日本の文化を次のように語りたいと思う。

日本の自然の美しさを味わう世代の広がり

2002年の留学時、運動と日本人の知り合いを増やすために駅から駅までのウォーキングイベントに参加した時はほとんどの参加者が年配の方で、また2011年から趣味としてはじめた山のぼりの時もほとんど年配の方と出会ったことにもびっくりした。インドネシアではハードなことをやっているのが若者だから、日本人の年配の方が確かに定年して時間ができるからやっていることには納得したが、みんな年齢にも拘らず力強いことに尊敬する。これが日本人の長生きできる秘訣になるだろうと思った。しかし、山のファッションの流行でまたSNSの流行で2015年から変化を感じた。山登りをやり始める若者もだんだん増えてきた。かわいくて色とりどりの服を着て山に入る若者もよく見かけるようになった。私も山のコミュニティーに入って同じ世代の山友と関西の山、日本全国の山に一緒に行って楽しく過ごしてきた。山ボーイ、山ガールだけじゃなくて、釣りの趣味をやっているガール、夜の星を楽しむ趣味をやっている星ガールなどの言葉も生まれた。どうも日本人の若者、特に女性の趣味の範囲が広がるようになってきた。私も今回も関西の百名山をいくつか訪れることができた。山登りは健康的だし、4つの季節を持つ日本の美しい自然にいつも癒されて、日本人の知り合いも増えて、なかなかやめられない趣味になっている。

グローバル化で変わる日常生活の流通

2016年までは日本ではトロピカルフルーツはなかなかスーパーに出てこなかったし、キングフルーツのドリアンもが1、2万円ぐらいの値段で売っていたのに、去年来日して業務スーパーに行ってみたら、ドリアンが簡単に見つけられ、割と安い値段で売っている。又、国産マンゴは2千円で売っているのだが、400円の海外産のマンゴを売っていることにびっくりだった。こんなに国の季節と関係なく、様々な国から来た果物が日本の日常生活に入ってきている。グローバル化のおかげで、人だけでなく、物も国境を超えて、移動する時代になってきた。国内で何でも手に入れる時代が来たですごいと感じた。もちろん私は日本にいた時はリンゴや、チェリー、桃などの日本で美味しく食べられる果物を食べていた。

 

合掌造りで有名な白川郷とかやぶきの里

伝統的な日本の家に興味があって、前からとても行ってみたかった京都府にある美山のかやぶきの里に去年の7月に行けるようになった。一般の乗り物では行きにくいから、アクセスしやすい白川郷に先に行った。2012年に雪におおわれる白川郷らしい風景を見ることができた。とても美しかった。今回は夏のかやぶきの里に行って、合掌造りをベースにする建物も見ることができて、もちろん現地の料理を食べるのも欠かせない。白川郷には飛騨牛のコロコロステーキ、かやぶきの里では新鮮なそばをとても美味しく味わえた。又、「鯖街道」という道の看板を見かけて、福井県嶺南地方から京都に主にサバを運ぶために使った街道のことが分かって、その道で歩いた時、一瞬歴史を感じた。昔の日本の生活を実感するために宿泊する観光客も相変わらず見かけた。

2018年7月の白川郷

白川郷2012年1月の白川郷

 

世界中から愛される日本料理

ニュースで日本料理の定番「お寿司」のためのマグロが簡単に手に入れにくくなり、魚を捕る側、そしてレストラン側がこの問題と直面していることを聞いた。今世界のどこでも健康の日本食を食べられるレストランが増えてきたからという。自分の国にも、今は弁当ベースのレストランだけではなく、寿司、うどん、ラーメン、そばを売っているレストランが増えてきた。私はインドネシアにいるときはインドネシア料理を食べて、日本にいる時はホームシックを全然感じなくて、日本料理を食べて、現地の食べ物を食べるのが好きだ。今回も養殖マグロで有名な和歌山にも行く機会があり、新鮮なマグロも食べた。大坂の名物のこなもんはもちろんよく食べていた。ゼミ生や友達と一緒にたこパをする機会も何回かあった。

研究先の場所を知る機会

堺市にある大阪府立大学に留学したこともあって、堺市のおすすめの観光スポットはほとんど覚えている。歴史上で鉄砲の技術が優れた職人たちがいたおかげで、自転車や刃物をとても高い技術で作ってきたのがこの町のブランドになっていた。堺市の人じゃない私でも現地の人のように日本人の友達や外国人の知り合いが堺市に遊びに来たら、町を一緒に歩きながら、誇りをもって堺市の観光スポットを紹介した。一つ気付いたのが仁徳天皇陵古墳などにいるボランティアガイドが増えた事だった。定年した年配の方がほとんどで、彼らのおかげで、観光客がガイドブックに載っていない面白い歴史も聞くことができた。

観光ブームの日本

日本は最近どこでも観光客であふれていて、観光ブームが訪れたことを自分でも感じた。5年前までは大坂の商店街で有名な難波や自然が美しい嵐山をゆっくり観光できたが、今回はちょっと雑な雰囲気を感じてしまった。観光客がだいたい電化製品だけでなく、日本ブランドの服や靴、又はドラッグストアで薬と化粧品をたくさん買い物しているだけに見える。日本側の店も日本人に中国語を習わせるよりは観光客のニーズを素早く対応できるようにレジ係と客呼びバイトの中国人を雇う方法を選ぶのがたしかに効率的だが、レジで丁寧におもてなししてくれた店員の姿が無くなってきたことをちょっと残念に思った。観光客側には現地の人と接触する過ごし方を忘れずに買い物をほどほどにして、現地の人のマナーを理解しながら行動したらどうかなあと、そして、店の人には外国人を雇っても、日本のいい文化も教育して、接客の質を変えないことができたらと思っている。

ムスリムフレンドリー観光に力を入れている日本

日本の観光地ではムスリムにも訪れやすくするためにさまざまな施設を提供してきた。お祈りする場所を提供する空港や駅、レストランが出てきて、だんだん増えたと感じた。アルコールを使わない日本料理、豚エキスを使わないラーメンが食べられるのがたしかにムスリムにとってとてもいいことだ。前に豚肉を使わない料理を注文したとしても、ソーセージが出てきた経験があった。日本人の中ではどうも加工食品になった食材だったら豚という肉のイメージが無くなったようだ。ハラールについて理解している日本人が増えてきたおかげで、イスラム教の戒律が厳しい外国人でも不安なく日本を旅する観光客が増えてきたと思う。私もムスリムだが、食べ物に関しては豚肉じゃない限りは肉を食べている。しかし、お祈りする場所はたしかに便利に感じる。前は公園やデパートの非常口のスペースを使ってお祈りしていたことがあった。

西国三十三ヵ所巡礼の旅をやっている日本人の心

宗教について日本人に聞くと宗教を持っていないことに自分を低める表現をよく聞いた。でも、日本人の日常生活を観察したら、日本人も宗教を持っていると思っている。願い事があったら、神社やお寺に行って、お守りまで買う人も少なくない。その中で真面目に三十三か所巡礼をする「イスラム教ではメッカ―に巡礼に行くのと似ている行動」をする日本人もいる。理由を聞いたら、天国へ行くための切符を手に入れるためだというふうに答えた。言葉で見えない日本人の行動を観察して、自然を大事にしたり、時間を守ったり、真面目に働いたりする性格を見たら、日本人も宗教の教えを実践していると私は思う。形で表現していないだけ。イスラム教の人口が多いインドネシア人もお祈りをちゃんとしていない人もいるし、断食していない人もいる。宗教は確かにその人と神様との一番プライベートな関係でもあり、どういうふうにやるかは本人次第である。クリスマスも祝う、お寺にも行く、神社にも行くという習慣を持っている日本人の社会だからこそ、お祈りしたい、豚肉を食べられない、ビールを飲めないというイスラム教の教えを果たそうとしている私にたいして、リスペクトいっぱいで日本人の知り合いがやさしく対応してくれている。

今の日本語教育で伝えるべきこと

前の訪問と今回の訪問に感じた変化をいくつか述べた。教育者として、日本語に隠される日本の自然、そして、日本人の習慣や文化を実感してきたことを学生たちにシェアしたいと思う。お互いの国の文化を理解し合うために、やはり積極的に日本人とのつながりを作る必要がある。そこから、日本人が食べるもの、日本人が住んでいるところ、日本人が日常生活でやっていること、日本人が信じることを観察し、納得いかない習慣でも相手の立場に立ってみて、理解しようとする努力も必要だ。それで、異文化理解が身に付いて、お互いにいい影響をし合うことで、戦争のない世界、よりよい世界がきっと生まれる。

最後に、「今の日本」を実感でき、日本人の知り合いとも再会できたことにNF-JLEP訪日研究フェローシップを運営してくださった事務局の方々に深く感謝いたします。本当にありがとうございました。

著者略歴

デウィ・クスリニ (Dewi Kusrini):日本語教育学学士(2002)、日本教育学修士(2007)、言語文化学修士(2011)取得。1998~2003西ジャワ州ラジオの日本語レッスン放送担当、2003~2004翻訳・通訳、大学・語学学校の日本語の非常勤講師、2005年~現在、インドネシア教育大学日本語教育学科の常勤講師。1999年~2005年日本語ジャーナル月刊雑誌のReaders’ Voicesの数回投稿。2002年JALスカラー。2009年JAPANTENTの大使(インドネシア留学生代表)。2012年大阪観光大使。2015年WFWP関西地区留学生日本語弁論大会優勝。