• 研究紹介
  • 2011.01.26

日本語教育基金プログラム寄稿「異文化」としての『のだめ』

この度、日本語教育基金の設置校である、クイーンズランド大学(オーストラリア)で日本語・日本文学と日本文化の教鞭をとられる青山友子先生に、2009年7月の豪州日本研究学会で発表された研究をご紹介頂きました。研究発表は、日本語教育基金(クイーンズランド大学では、Queensland Program for Japanese Educationという名称)の支援を受けて行われたものです。海外において、日本のマンガやアニメが人気を得ており、それをきっかけに日本語を学ぶ人たちが増えているようです。今回のエッセイの題材である『のだめ』こと『のだめカンタービレ』は、アニメ化や実写映画化もされた、二ノ宮知子氏の人気マンガですが、青山先生は、このマンガの魅力を、児童学の研究者で、お茶の水女子大学の前学長である本田和子氏の「子ども論」の視点から擬声・擬音・擬態語を使って分析されています。

 

「異文化」としての『のだめ』

オーストラリアで日本語日本文学を教えて、もう30年になるが、まだ初期のころ、博士課程の研究(これは明治末年の、反自然主義文学について)も始める前に、こわいもの知らずで、 “Male Homosexuality as Treated by Japanese Women Writers” (1988) *1と題した論文を書いた。その中で、当時はまだ研究する人もほとんどなかった少女 マンガ(萩尾望都、竹宮惠子、山岸涼子、吉田秋生の作品)にもふれた。これが、わたしにとっては活字になった初めての論文で、まことに拙いものながら、題材の新しさのため、いまだにマンガ研究の初期の文献として引用される。しかしその後私自身は、本業の日本語教師と文学研究に専念して、マンガとはすっかり縁がなくなってしまっていた。

 

少女マンガに(再)開眼

再び少女マンガに興味を抱いたのは、お茶の水女子大学前学長の、本田和子(ますこ)名誉教授の講演による。私はここ何年か、日本近代・現代文学における少女像を研究テーマにしてきた。本田先生の「<ひらひら>の系譜」および「<少女>の誕生」(初出はそれぞれ1980、81、共に『異文化としての子ども』1982年紀伊国屋書店に所収、現在ちくま学芸文庫で読むことができる)をはじめとする数々の少女論は、このテーマにはもっとも重要かつ基本的な文献である。ところが、日本の少女文化論やマンガ論は近年、英語圏においても盛んだが、本田論文は、これまでほとんど翻訳もされず、正確な紹介もされていなかった。

本田先生の仕事を英語圏に知らせる、という目的と、自分自身の研究のために、2008年8月、クイーンズランド大学で先生ご自身に講演をしていただくことができたのは、この上なく幸運なことだった。講演をお願いするときに、オーストラリアの学生や一般の参加者にも興味を持たれやすいテーマを、ということで、少女マンガを取り上げていただくことになった。本田先生はすでに、『異文化としての子ども』でも、またそのほかの80年代に次々と刊行された評論でも、『ベルサイユのばら』や萩尾望都やら大島弓子など、少女マンガをとりあげているが、今回はそういった、「古典的」少女マンガではなく、もっと新しいものを、というので、東京での打ち合わせのときに先生にいくつか作品名をあげていただいた。少女マンガから遠ざかること久しかった私には、『花より男子』も、『のだめカンタービレ』(以下『のだめ』と表記)も、初めて聞く作品名だった。早速「準備」のために、何巻か読んでみた。それほど期待はしていなかったのだが、特に『のだめ』の面白さに、現代の言葉で言えば、「はまって」しまった。なぜ面白いのか、考えてみたいと思った。本田先生には、講演主催者の特権で、『のだめ』を中心にお話くださるようにお願いした。「日本における<少女マンガ>の系譜」と題された講演は、1920~30年代の少女文化や70年代の少女マンガから受け継がれたもの、また、それらとは異なる要素、すなわち、性役割の定型からの逸脱、平等原則への叛旗などを明確にした。*2

それからほぼ一年後、QPJE (Queensland Program for Japanese Education) の援助を受け、豪州日本研究学会Japanese Studies Association of Australia (JSAA)の会議(2009年7月、シドニー)に出席した。そこで、お茶の水女子大学菅聡子教授、およびニューヨークのヴァッサー大学ドラージ土屋浩美助教授と共に、(文学的に見た)少女マンガについてのパネルを組み研究発表をしたのだが、私の選んだテーマは、「『異文化』としての『のだめ』」(“Nodame as‘Another Culture’”)である。これは、いうまでもなく、本田(以下敬称略)の前掲書、『異文化としての子ども』をもじったタイトルだが、単にタイトルに使っているだけではなく、論文の骨子が、本田「子ども」学に効果的に使われている擬声・擬音・擬態語、「べとべと」「ばらばら」「わくわく」「もじゃもじゃ」というキーワードを使ってのだめを分析する、というものであった。

 

本田和子氏の「子ども論」

『のだめ』の分析に入る前に、まず、その骨子となる本田の子ども論をみてみたい。『異文化としての子ども』は、筑摩学芸文庫版の川本三郎の解説にあるとおり、従来の児童教育論や児童文学論とは立場を異にした子ども論である。そこで論じられるのは、「現実の子どもというより、イメージとしての子ども」、「フィクションとしての子ども」(これは89年刊の本田の著書の題でもある)「ファンタジーとしての子ども」(これは川本氏の解説のタイトル)「子どものエッセンスであり、どこかここではないところにいる子どもの幻影(略)遠い日の子どもの記憶であり、いつか向こうからあらわれる見たことのない子どもの予感」である。*3文化人類学、神話学、心理学、記号論、文学理論などを自在に取り入れながら、本田は、不可解なるもの、異文化としての子どもを探求していく。

子どもへのまなざしが規範から逃れ、自由を取り戻す、そのとき、私どもの前に彼らの 『他者性』が静かに浮かび上がる。子どもたちはおのずからなる反秩序性の体現者であ り、『文化の外にある存在』として、存在そのものが秩序への問いであり続けるのだから。(本田1992 19-20ページ)

この、他者としての子どもを捉え、記述するのに、本田は、先にも触れたように、擬声・擬音・擬態語をキーワードとする。たとえば、第一章、「『べとべと』の巻―幼い錬金術師たち」では、多田智満子の詩や16世紀の画家ブリューゲルの絵などの例をあげながら、子どもの泥遊びに創造と破壊という両義性のあることを指摘する。泥のようなべとべとどろどろしたものは、大人の秩序から見れば未分化で低次元、混沌とした厄介なもの、また、排泄行為とも結びつく、汚い、恥ずかしいもの、危険なものである。しかし、「べとべとぐま」パディントンなど、「べとべとのヒーローたち」は、その厄介な混沌を日常生活に持ち込む。このように、本田は「ばらばら」も「わくわく」も「もじゃもじゃ」も「ひらひら」も、子どもという「異文化」を理解するのに重要な鍵となることを提示する。

 

『のだめ』の魅力

私の『のだめ』論では、『異文化としての子ども』に出てくる擬声・擬音・擬態語のうち、あまりに有名な「ひらひら」はわざとはずした。少女マンガを論ずるのに、「ひらひら」をあえてはずすことによって、のだめの「少女」性よりも「(異文化としての)子ども」性に注目しようとしたのである。
『のだめカンタービレ』の主人公野田めぐみ(愛称「のだめ」)は、整理や掃除が苦手、部屋はすぐにごみだらけ、「ぐちゃぐちゃ」、「べとべと」、「めちゃめちゃ」になる。また、天才ピアニストとしてののだめは、音楽で自他共に「わくわく」させるが、整然と組織化され、系統だった勉強はあまり好きではなく、曲に集中できずに「ばらばら」になってしまうこともある。のだめの「ペトルーシュカ」の演奏の最中に、暗譜が一瞬途切れて、「今日の料理」のテーマソングが入り込んでしまうところがある(二ノ宮知子『のだめカンタービレ』講談社2002-2009年 第9巻39ページ)。この場面については、さまざまな人がコメントしているが、私はこれを「ばらばら」の例としてみる。この場面では、ペトルーシュカの人形たちや「今日の料理」の楽譜だけでなく、のだめの好きなアニメのキャラクターやおもちゃたちまで出てくる。しかし、本田がルース・クラウスとモーリス・センダックの絵本『あなはほるもの おっこちるとこ』を例として論じたように、「ばらばら」に見えるものは、必ずしも「きれぎれに切断された世界」ではない(本田1992年54ページ)。むしろ、「ちぎれちぎれの細片が勝手に呼吸しつつ、キラキラと輝いて」(同58ページ)いる。むろん、音楽のコンクールや演奏会では、こんな「ばらばら」は許されない。許されないけれども、ストラヴィンスキーから架空のアニメキャラまでが交錯する画面は視覚テクストとして面白いだけでなく、のだめの心理・ストーリーの展開に非常にうまく呼応している。音楽以外、たとえば、のだめの恋愛や友人関係にも、「わくわく」と「べとべと」、「ばらばら」が交差する。

のだめはピアノ科の学生だが、物語のはじめのころは、音楽家よりは幼稚園の先生になりたいという「子ども」らしい希望を持っていた。これを反映して、のだめが作曲するのは、「おなら体操」(これは「べとべと」と同列の、秩序や統制に反する混沌と考えられる)「もじゃもじゃ組曲」である。のだめは子供たちの最高の遊び相手とにはなりえても、先生にはなれそうもない。しかし、本田論文に例示される、古今東西の「べとべと」「もじゃもじゃ」などを体現する絵画、文学テクストと並べ見ることによって、のだめの「子ども」性が、音楽、そして芸術一般、それを求め生み出す人間性の根本と深く結びついていることがわかる。たとえば、本田のあげた「もじゃもじゃ」の主人公たち、アルプスの少女ハイジやミヒャエル・エンデのモモは、「他界からのエトランジェ」「反秩序的な異端児」(本田1992)であると共に、救世主としての役割も担っている。のだめは、普通じゃない、汚い、変人、異星人、などと作品中で言われもし、それがまたジョークにもなっているが、その子ども性のために、周りの人々や読者に、希望や癒し、楽しさを与えてもいる。型にはめられることを拒み、「もじゃもじゃ」「べとべと」「ばらばら」のまま、「異文化」として自由に「わくわく」を追求しようとする。これこそが、のだめの魅力ではないかと私は考える。

JSAAの会議から1年たち、この「本田子ども論で読むのだめ」論は、パネル仲間の菅・ドラージ両氏の論文、および本田先生の講演の英訳などと共に、US-Japan Women’s Journal の少女マンガ特集号に掲載された。*4このプロジェクトによって少女マンガに(再)開眼した私は、四半世紀のブランクを取り戻そうとまではいかないにしても、その後も吉野朔実、よしながふみ、など、文学研究と並行して鑑賞・研究している。日本語教育の現場にも、いろいろ取り入れているが、これについてはまた別の機会としたい。

 


*1 Tomoko Aoyama, “Male Homosexuality as Treated by Japanese Women Writers”, Gavan McCormack and Yoshio Sugimoto (eds), Modernization and Beyond: The Japanese Trajectory, Cambridge University Press, 1988, pp.186-204.

*2 この講演はその後、Masuko Honda, “The Invalidation of Gender in Girls’ Manga Today: with a special focus on Nodame Cantabile”, translated by Lucy Fraser and Tomoko Aoyama, US-Japan Women’s Journal, No. 38, 2010, pp.12-24 という形で、質疑応答の一部と共に、英訳した。

*3 川本三郎「ファンタジーとしての子ども論」本田和子『異文化としての子ども』筑摩書房1992年241-150ページ。ただし、ここでは現実からの遊離が強調されているが、本田先生の著作には、『子どもが忌避される時代  なぜ子どもは生まれにくくなったのか 』新曜社 2007年他、現実の子どもを扱ったものも決して少なくないことを注記しておきたい。

*4 Tomoko Aoyama, “Nodame as ‘Another Culture’”, US-Japan Women’s Journal, No. 38 (2010), pp.25-42.

著者略歴

青山友子:お茶の水女子大学(英文科)卒業後、東京外国語大学にて修士号(日本語・日本研究専攻)クイーンズランド大学(オーストラリア)にて博士号取得。近現代の日本文学・日本文化が専門。クイーンズランド大学人文科学部言語比較文化研究科上級講師。

主な近著:
T Aoyama, Reading Food in Modern Japanese Literature (University of Hawaii Press, 2008, joint winner for the Asian Studies Association of Australia Mid-career Researcher Prize for Excellence in Asian Studies in 2010)
T Aoyama and B Hartley eds, Girl Reading Girl in Japan (Routledge, 2010)